「ゆきあいの空」という季の言葉をご存知でしょうか。夏と秋、ふたつの季節が行き合う空のことを言うそうです。この季節はまた「二百十日」と言って雑節の一つ。立春から数えて二百十日目のことを言いますが、台風のやってくる日とされています。

次候の「天地始めて粛し」言葉通り、夏の気がようやく落ち着いてくる頃のことを言い表します。夏の風から秋の風へと、季節がすれ違う空は秋の気配をゆっくりと運んできます。

今ではほとんど聞かれない言葉のようですが、『古今和歌集』にもこの言葉がみられます。まだまだ残暑は厳しいですが、少し涼しくなった時、空を見上げてみてください。ゆきあいの空を感じられると思います。

合掌

高円の 野辺の秋萩 いたづらに
咲きか散るらむ 見る人無しに

笠朝臣金村 万葉集・巻ニ

仏教ではいつまでも続かない喜びを「相対の幸福」といいます。「相対」とは、比べて分かるという意味があります。私たちは一本の棒を見て、長いか短いかと問われても、答えることができません。それは短い棒と比べれば確かに長いのですが、もっと長い棒と比べれば短くなるからです。

同様に、重い軽い、高い低い、優劣、美醜、貧富など、他の物と比べて初めて評価がはっきりします。そんな相対的な知恵しか持たない私たちは、自分の幸せについても、常に誰かと比較していないと、幸か不幸かの実感が出来ないのです。

ところで、この「幸」の字源は諸説あるそうですが、その一つに、中国の手枷(手錠)をもとにしてできた象形文字だといわれています。死刑や流刑などと比べて、手枷の刑は軽い。やれやれ命拾いした。実に幸いであった。などと喜ぶことから「幸」という字形になったというのです。

私が中学二年生の時でした。賢くなかった私は、珍しく国語のテストで90点を取り、それはそれはとても嬉しかったのですが、暫くして喜びは落胆に変わってしまいました。何故なら、同じ90点以上を取った学生が十人もいたからでした。勉強もスポーツも仕事も優劣を競いますが、評価は比べる相手によって変わります。

昔から「幸せでいたいなら、上見て暮らすな下みて暮らせ」と言われるのも、自分より不幸な人を見ていないと、幸せを感じられないからでしょう。「僕は彼より背が低いし成績も悪い。僕はなんて不幸なんだ」と嘆いたり、「あの人より私の方が細くて脚も長いわ」と勝ち誇ったりもします。

そんな此の世の幸せの実態を、『万のこと皆もって空事・たわごと・真実あること無し(歎異抄)』と親鸞は言っています。このような相対的な幸福に対して、仏教では永遠に変わらぬ「絶対の幸福」を説きます。仏教とは、この無上の幸福を明らかにするために説かれた真理の教えであり、私たち人は、絶対の幸福になるために生まれたのだと釈迦はいうのです。

釈 正輪 拜