残暑お見舞い申し上げます。

今日八月十五日は月遅れ盆。そして72回目の終戦記念日でもあります。先祖の霊を送る灯火を川に流す灯籠流しには、戦火に散った人々への祈りも込められています。
広島では原爆の日(八月六日)のとうろう流し。長崎では古くから、初盆の霊を船に乗せて見送る精霊流しの慣習があります。夜の川面にいくつも静かに流れていく灯籠には、そのひとつひとつに祈りや思いが。

おもざしの ほのかに燈籠 流しけり
(おもざし…おもかげ)

飯田蛇笏

今年も多くの檀信徒の方々がお墓参りに来られました。当寺院では、この機会に施餓鬼供養を致しますが、その際、私は決まってこのようなお話を致します。

世間では、お盆には亡くなった肉親たちの霊が帰ってくるのだから、その供養のために、墓参りをするのだと信じてられていますが、浄土真宗の開祖である親鸞聖人や蓮如上人は、死者の霊が墓などに帰って来るものではないと、世間の俗信を破っていられます。

平生に阿弥陀仏に救われ、絶対の幸福になっている人は、死ねば浄土へ旅立ち、やがて衆生を救済する大活動をしますから、墓石の下などには眠ってはいないと説いておられます。

そうでなければ、各人の業によって苦界に沈みますから、これまた墓に集まることはできません。親鸞聖人は御臨末に、「我が歳きわまりて、安養浄土に還帰す(御臨末の御書)」と仰っています。これは、今生の終わりが来たら、私は弥陀の浄土へ帰ると言うこと。また、常にこうも言っていました。「某閉眼せば加茂河にいれて魚に与うべし(改邪鈔)」と。

平生、生きている時に絶対の幸福になることが、私たちの生まれてきた目的であり、それ一つ果たせば、死んだ肉体は蝉の脱け殻と同じですから、親鸞聖人は一切、墓や葬式などを問題にしてはおられないのです。

お釈迦さまの説かれた仏教の本質はそこにあります。では、墓参りは無意味なのでしょうか。それも違います。それは自身の心と向き合い生き方を正せば、弥陀の救いにあう勝縁にもなるからです。世界では毎年多くの人が死んで逝きます。親は愛児を、愛児は親を、妻は夫を、夫は妻を、いつ肉親と永遠の別れをすることになるかわかりません。人は塗炭の苦しみをなめて生きて行かねばなりません。それが人生でもあります。

それにもかかわらず、私たちは死に対して完全に麻痺した心があります。無常観のないところに、決して門法心は起きません。朝から晩まで忙しく、五欲に追い回されて、静かに自己の脚下を見る時が余りにも少ないのです。

しかし、世の中が忙しくなればなるほど、人生を振り返る間が必要でしょう。一年に一度、静かに墓前にぬかずくことは、人生を見つめる得難い機会になることは間違いありません。

「私も死なねばならぬのか」と生死の一大事に触れて、この世に生を受けた先祖の因縁に感謝し、厳粛に合掌する機縁だと話すのです。

合掌

私の知人である秋川雅史さんは歌っています。「…そこにわたしはいません。眠ってなんかいません…」

釈 正輪 九拝