蓮の花を見たことはありますか。蓮の花はいまごろの季節夜明けとともに、ポンと小さな音をたて水面に、白や淡紅色の花を咲かせます。泥水の中から生じ、真っ直ぐに凛とした美化を咲かせる姿が、清らかさや聖性の象徴とされてきました。

仏教では如来や菩薩が、蓮華台に座すお姿で描かることがあります。このお姿を蓮華座といいます。また往生した人も蓮華に座るとされています。死後、愛する男女などがともに往生して、同じ蓮華座の上に生まれ変わることを「一連托生」といいます。

私の両親の故郷には、昨今有名になった「モネの池」があります。モネの池は岐阜県関市板取の根道神社参道脇にある貯水池なのですが、私が修行をした高賀山の伏流水を利用して、1980年頃に灌漑用に整備されました。勿論モネの池は通称であり、正式な池の名称ではないのですが、澄み切った水面に、錦鯉と蓮の華のコントラストが、いかにもモネの描いた絵に似ていることからネットで評判になり、いつしかモネの池と呼ばれるようになりました。

母方の祖父が生きていた頃、実家は根道神社の氏子総代をしておりました。私も幼少のころはマタギだった祖父につれられ、山に入るときは必ず参拝をした記憶があります。根道神社から北西を覗くと、赤煉瓦の家が見えます。其処が母方の実家ですが、その実家は今では叔母が一人住んでいます。皆さんもモネの池に行かれることがあれば、どうぞお寄りください。叔母も喜ぶことでしょう。

合掌

運命の法則を仏教では「因果応報」という言葉で表しています。因果応報は仏教の根幹の教えです。根幹とは根や幹のこと。仏教を一本の木とすると、根っこがなければ木は枯れ、幹を切ったら木は倒れてしまいます。ですから因果応報の意味が分からねば、仏教の教えは一切分かりません。では因果応報とはどんなことでしょう。

「因果」とは、原因と結果ということです。どんな結果にも必ず原因がある。原因なくして結果が現れるということは、万に一つもありません。例えば、飛行機が墜落して、海底深く沈んでしまった場合など、原因が分からないことはありますが、原因が「ない」のではなく、それは「運命が何によって決まるのか」という、誰もが知りたい問いについても例外ではありません。

「あの人は運がいい」とか「あの人は運が悪い」とよくいいますが、運命というのは、何の原因もなく、ただの偶然で決まるものではないのです。お釈迦さまは『善因善果・悪因悪果・自因自果』と説かれています。因とは行い、果は運命を表しています。つまり、善い行いは善い運命となり、悪い行いは悪い運命を引き起こす。

例えば植物なら、大根の種を蒔けば大根が、西瓜の種からは西瓜が出てくるということです。わたしたちの運命も、いつでもどこでも必ず原因(行為)に応じた結果が現れるということです。そして善いも悪いも、自分の蒔いた種(行為)は、自分が刈り取らなければならない。これを「因果応報」というものです。

釈 正輪 拜