半夏生の候。夏至から数えて十一日目をいいます。梅雨も終盤にさしかかりました。このころ降る大雨を「半夏雨」といいます。そのために、昔から農家では田植えを終わらせる節目の日とされ、各地にさまざまな風習が伝わっています。

半夏という「烏柄杓(からすびしゃく)」が生えると、毒気が立ち込めるといって井戸に蓋をしたり、この時期の野菜は食べないとされたり、ハンゲという妖怪が出るとの言い伝えまであります。

じめじめ続きで食べ物が腐りやすい時期でもあります。一年の半分が過ぎて、心身の養生をすすめているのかもしれません。「雨安居」といって、本来修行僧はこの時期、座禅を主としていました。

しみじみと 海に雨ふり 澪の雨
利休鼠と なりてけるかも

北原白秋・雲母集より

「煩悩具足の凡夫」という親鸞聖人の言葉があります。「凡夫というのは無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、憤り腹立ち、そねみねたむ心多く間なくして、臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず(一念多念証文)」

人間というものは、欲や怒り、腹立つ心、妬み嫉みなどの塊である。これは死ぬまで静まりもしなければ減りもしない。もちろん、断ち切れるものでは絶対にないのだ。仏教を聞くと、欲の心が少しは無くなったり、怒りの気持ちが治ったり、他人を妬み嫉みの心などなくなるだろうと思っている人もありましょうが、親鸞はそんな心は死ぬまで変わらないと、はっきり言い切っています。

つまり我々人間は「凡夫具足」を持って生まれ死んで逝く生き物だということです。私人間では何ともできない業があります。だからこそ、御仏にすがればよいのです。

罪障功徳の体となる 氷と水のごとくにて
氷多きに水多し 障り多きに徳多し

高僧和讃

佛に救われると、欲や怒りの煩悩(罪障)の氷が解けて、幸せ喜ぶ菩提の水となる。氷が大きいほど、解けた水が多いように、罪障(煩悩)が多いほど、幸せ功徳が多くなるのである。これが「煩悩即菩提」ということなのです。真の幸福とは本来、相対の言葉ではとても表現しきれませんが、言葉によらなければ伝えられないこともあります。

ですから古来より高僧は、和讃を用いて表現しているのです。「ジブがきのシブがそのまま甘味かな」阿弥陀仏を始め、数多の佛はその身そのままの人間を救う、誓願をたてられておられます。特に弥陀の救いは、「転悪成善(悪行がそのまま善となる)」ともいい、煩悩が減ったり無くなって幸福になるのではなく、煩悩がそのまま喜びに転ずるのです。

合掌

有漏の穢身は かわらねど
心は浄土に 遊ぶな

(欲や怒りの絶えない煩悩具足の身は変わらないけれども、今が幸せ今日が満足、恨みと呪いの渦巻く人生を、浄土な遊んでいるような気分で生かされる)

親鸞・帖外(じょうがい)和讃

釈 正輪 拜