cs06_01_01前衆議院議員の市村浩一郎氏は、NPOという言葉を生み出した人物。松下政経塾を卒塾して、阪神・淡路大震災後に発足したコミュニティ基金の事務局長兼プログラム・オフィサーを務め、その後衆議院議員となる。東日本大震災発災時には、災害対策担当の国土交通大臣政務官として当日の夜に現地に入り、その後2か月に渡り、現地対策本部本部長代行として奔走した。惜しくも2012年12月の衆議院選挙で落選。その多くのパフォーマンスを国民が知らない市村氏は今、何を思い、再起に賭けるのか。

 官僚機構が一番苦手なのは、現場をよく知っている政治家だ。

 自分たちが一番嫌いな“現実”直視させられるからだ。市村浩一郎氏は現場を知っている。何より、災害の現場に彼はよく居合わせる。

 たとえば2004年10月23日に発災した新潟県中越地震。この時、市村代議士は民主党の衆議院議員の一人として、偶然、その場所にいた。発災後、市村氏はすぐに小地谷市役所に出向いた。小地谷市長はじめ市役所の幹部、自衛隊員、国交省の関係者、警察、消防関係者などがその場に集まって対策会議を行っていた。そして、あることで戸惑っていた。自衛隊のヘリコプターを被災地に着陸させるには国交省の航空局長の許可が必要だという話になっていたのだ。実は、緊急時にはその許可はいらない。そのことを市村氏は知っていた。災害時救助のためならば、自衛隊機はどこであれ、自由に降りていいのだ。市村代議士は「阪神・淡路大震災の際に議論があり、そういうことになっています」という話をして、自衛隊に「だから降りてください」と伝えたそうだ。でも、野党の議員の言葉を、誰も信じない。だから当時の国交大臣に連絡を入れてもらって、許可をもらった。

 時系列は半年ほど遡るが、兵庫県尼崎市で起こったJR福知山線の脱線事故の時にも、市村代議士は現場に駆け付けた。選挙区の隣の市であったからだ。そして、動かない現場と共有されない情報という現実を目の当たりにした。

「災害や事故に際しては、政治家はぜひとも現場に行かなければいけないと思います。そのためにも、私たち国会議員には国政調査権という最高の権限が分け与えられているのです。この権利は、警察権よりも上にあるのです」と言う。

 国政調査権は、理念上は別に委員会を通す必要もなく、国会議員は個人として、この権利を行使することができるという解釈だ。つまり、事故現場であれ、何であれ、国会議員はどこにでも入っていくことができる。これは権利であると同時に、知り得る立場にいて見過ごしてはいけないという国会議員の義務でもある。もし自分が現場にいたならば、逃げてはいけない。それが彼の信条だ。

「『自分がやらずして誰がやる』。政治家は本来、そうした気概を持っていてしかるべきなのです。わが身を捨てて、尽くす。そのための権利なのです。もちろん間違ったことをしても、現場の邪魔になってもいけない。間違えたら、責任を取る。その覚悟は常に必要です」

 事故発生時、市村氏は東京へ向かう空の上にいた。国会での質問を済ませ、すぐに現場に向かった。そこから最後の一人が運び出されるまで現場に留まったそうだ。家が近いので夜中には帰宅して、朝早くまた現場に行く生活を4日間続けた。お見舞いのため、ご遺体の安置所にも出向いた。国会議員とわかると被害者の家族の方々に叱咤激励され、自然とその場の混乱を、陣頭指揮を執って整理することとなった。

「ちゃんと情報を出してください」「JRの人たちも、そこにただ突っ立っていないで、皆さんのお気持ちを聞いて回ってください」「ご家族がご遺体と対面するときには、あなたたちが付き添ってください」と市村代議士は矢継ぎ早に指示して回った。

 そうやって、半日かけてその場を仕切ることになったのだ。

 そして、あの日はやってきた、2011年3月11日。発災時、市村氏は議員会館である新聞記者と雑談をしていた。国交省の大臣政務官であったので、すぐに呼び出された。国交省災害本部の大型のモニターで津波の猛威を目の当たりにした。

 その後、「政府の調査団を出すのですが、政務官は阪神・淡路大震災や新潟県中越地震の際の復旧・復興に携われた経験もおありだから、ぜひ加わっていただきたいのですが?」とのオファーを受ける。

「もちろんです」と市村氏は即答した。これも運命だと思った。

「これが天の配剤であるのならば、これまでの経験を現地で存分に発揮するのが私の使命だとすぐに悟った」のも当然だろう。

 それから2か月余りに渡り、政府現地対策本部が現場の復興の陣頭指揮を執った。しかし、実はこの本部のことは、あまり世に知られていない。6月下旬の復興対策本部の設立に合わせ、その下部組織として名前が挙がったが、実際には現地対策本部は、復興対策本部ができるはるか以前から存在し、活動していた。震災当日の夜に宮城県庁に入った政府の調査団29名が、翌日の朝、午前6時にそのまま政府現地対策本部となったのだ。だから設立は3月12日ということになる。東祥三団長(当時の内閣府副大臣)が本部長となり、彼の指名により、市村浩一郎国交省政務官と後から加わった阿久津幸彦内閣府大臣政務官(衆議院議員:当時)が本部長代行となって、被災地で村井嘉浩宮城県知事らとともに、悪戦苦闘をすることになる。

 この本部は、そうした経緯から、偶発とは言わないまでも、はっきりとした位置づけとは別の次元で組織され、継続してきたと言える組織だ。官邸からは半ば独立して、あくまでも被災地の現実に即して、問題に即応して課題解決を図ってきた。中央とすり合わせするのではなく、半ば勝手連のような立場だった。「こうするしかないから、こうしますよ」と本部長、代行の間で話をして、必要に応じて総理、官房長官、防災担当大臣、国土交通大臣などに話を通して、政治決断をしてきた。

 ただ、不幸にも福島第一原発の事故が起こってしまった。この問題は政府の管轄となり、霞が関が仕切ることになる。それもあって、政府現地対策本部の影は薄くなった。しかし、宮城県を中心に被災三県の人命の救助、被災者の支援、ご遺体の安置、がれきの撤去、櫛の葉作戦と呼ばれた道路の復興、仙台空港の再開、仮設住宅の整備など、特に最初の2か月に力を尽くしたのは、この本部と地元の自治体、そして自衛隊や警察、消防、NPO、ボランティアなどの力だった。

 そして惜しいかな、この本部で活躍した、東祥三、市村浩一郎、阿久津幸彦の3名ともが、2012年の週銀総選挙で落選の憂き目に逢ってしまう。

 民主党政権の功罪。その功の部分が、大きな罪によって覆い隠されてしまった。その一例でもあると私は思う。

(文:赤城 稔)

※次回は10/12更新予定です。

発災2日目。現地調査報告書より

発災2日目。現地調査報告書より

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